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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和62年(う)27号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中七〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人橋口律男提出の各控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官阿部貫一郎提出の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  弁護人の控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反の主張)及び被告人の控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張に関する部分について

所論は、要するに、強盗殺人の事案につき、原判決が任意性及び信用性のない被告人の検察官に対する各供述調書を採用したのは、明らかに判決に影響を及ぼす訴訟手続の法令違反である、というものである。

一  そこでまず、所論指摘の各供述調書の任意性について検討する。

1  所論は、被告人の取調べにあたった検察官は、被告人に対して威迫による利益誘導をして供述を迫り、その翌日、右発言を撤回するなどしてこれを是正する措置をとっているが、一旦違法な取調べ方法が行われた以上、その後是正措置がとられ、その後の捜査官に対する被告人の供述が威迫による影響を受けていないとしても、その取調べ方法の瑕疵が治癒されるものではないから、違法な取調べ後の供述はすべて任意性が否定されるべきであり、また、仮にその是正措置によって瑕疵が治癒され、任意性に対する影響が払拭される場合があるとしても、本件においては、右威迫による被告人の供述の任意性に及ぼす影響が払拭されているとはいい難い旨主張する。

確かに、捜査官によって威迫による自白の強要が行われた場合、これが自白の任意性に影響を及ぼすことは明らかであるが、その後右のような違法な取調べ方法を除去するための是正措置がとられ、かつこれにより違法な取調べ前の状態にまで回復しているような特別の状況が認められるならば、違法な取調べによる自白の任意性への影響は払拭されているものと考えられるのであるから、一旦違法な取調べ方法が行われた以上、その一事をもって、その後の事情等を一切考慮することなく、自白の任意性はすべて否定すべきであるとする弁護人の主張は採用できない。

そこでまず、検察官の発言内容とその是正措置等についてみると、原審証人甲野二夫、同丁沢三夫の各証言、被告人の原審公判廷における供述によれば、昭和六〇年九月二四日、甲野検事は、被告人に対して、本件の送致は殺人であるが、強盗殺人の事案である、強盗殺人の法定刑は死刑か無期懲役刑しかない、別件の強盗殺人事案と対比して本件はより悪質であり極刑相当である、求刑については主任検事である自分が裁量して決めるなどと申し向けたうえ、真実を話すよう説得したが、その翌二五日の取調べの冒頭で、「自分も昨日は君の自白が欲しくて言いすぎた。昨日言ったことはすべて撤回する。求刑は高検次長と相談して決める。裁判では強盗殺人になるかどうかは分からない。あるいは君が主張するように自殺で片づくかも知れない。」などと説明したうえ、「死刑が怖くて話すのではないか。」「死刑が恐ろしくて話すのなら利益誘導になるから話さなくてよい。」などと告げていることが認められ、検察官の同月二四日の取調べ方法は、原判決が説示するとおり、これを全体として考えると、威迫による利益誘導によって自白を迫る違法なものであるといわざるをえないものであったが、また、他方、検察官が、その翌日、右認定のとおりの是正措置を講じていることが明らかである。

そこで更に、右認定の威迫の内容程度とこれの是正措置の時期及びその内容等の諸事情も考慮したうえ、前掲各証拠に関係証拠を総合して右是正措置後の取調ベ状況についてみると、原判決が詳細に説示するとおり、甲野検事の右威迫による自白の発言が供述の任意性に及ぼす影響は、その後の一連の是正措置によって実質的に払拭されているものと認められる。すなわち、関係証拠によれば、被告人は、昭和六〇年九月二四日、甲野検事から前認定のとおり威迫されて自白を迫られたが、その当日は「これまで述べたことは本当です。」と答えてその供述を変えず、翌二五日、甲野検事が前示の是正措置をとった後、被告人に対して「死刑が怖くて供述するのではないか。」と確認した際、被告人は「話すべき時期に来ている。」旨述べたものの、詳細な供述は拒み、「Mさんに最初飲ませたところMさんはその後その農薬を全部飲んだ。」旨結論的な部分のみだけを供述しているのであって、右のような態度は前記威迫より死刑の求刑を恐れていた者というにはそぐわないものであること、また、当時、同検事は、被害者のMは農薬自殺ではなく、被告人が別の場所で殺害して本件犯行現場にその死体を遺棄し、自殺を偽装するために同女の死体に農薬をふりかけたにすぎないとの心証を抱き、同女の死は自ら農薬を飲用したことによるものであると主張する被告人と対立状態にあり、同月二五日の甲野検事の取調べにおける被告人の前述の結論的な供述が、当時、右のような心証を抱いていた同検事の意に沿うものではなく、同検事から再度これを問いただされても被告人はその供述をかえず、翌二六日の乙川警部補による取調べの際も、同女が農薬を飲むとき手を添えて農薬入りの瓶を押し上げた旨供述したほかは、同女の死は自殺によるものである旨の供述を維持し、さらにその主張を支えるため同女が自殺に際して遺書三通を書いているなどと述べ(但し、この点は後日撤回している。)、また、同女を連れ出したのは同女のSに対する貸金の残額を取り立て易くするためであった旨の新たな弁解も始めるなど、これまた、当時他所で被害者を殺害し自殺の偽装のため死体に農薬を振りかけた旨の心証を抱いていた乙川警部補の意に沿うような供述ではなく、かえって同警部補と対立しているものであり、同月二七日以降の甲野検事の取調ベにおいても、被告人が直接手を下して殺害したものではなく、被害者が自ら農薬を飲んで死亡したものであるとの供述を貫いているのであって、同女をして前途を悲観させて自殺に追い込んで死んで貰おうと決意したとの犯意は自白したものの、犯行を計画した時期、被害者の死体の傍らに落ちていた寿司の空パックは被告人が同女に与えたものか否か、被告人が強制的に同女に手を添えて農薬を飲ませたのではないか、大河原の小屋がないことを知りながら同女を心理的に追い込むためにわざと連れて行ったのではないかなどの点について最後まで甲野検事と対立して、自己の主張を貫き通していることが認められる。右事実によれば、是正措置後の被告人の供述内容や供述態度は、それまでの主張を曲げていないばかりではなく、自己の主張を支えるため新たな事柄を付加して供述するなどしているものであって、甲野検事の意に迎合したものとはみられないから、原判決が説示するとおり、同月二四日の同検事の前記威迫による被告人の不安はさほど強いものであったとは考えられないうえ、右威迫による被告人の供述の任意性に及ぼす影響は、同検事による同月二五日の一連の是正措置によって既に払拭されていたものと認めるのが相当である。

なお、所論は、原判決は、被告人の検察官に対する供述が客観的真実に基づくものであるから、検察官の意を迎えたものではなく、その任意性が肯定されると判断しており、信用性の問題と任意性の問題をとり違えているというのであるが、原判決の説示から明らかなように、任意性の判断のために摘示している同月二五日以降の事由は、検察官と被告人が対立していた状態にあったことを明らかにするためのものであり、それが客観的真実に基づくことを前提としたものではないことは明らかであって、所論はその前提を欠き採用できない。

さらに、所論は、被告人において、〈1〉Mから金七五〇万円を騙し取ったこと、〈2〉殺意をもって同女を諸所に同行したうえ、自殺をさせるための脅迫等を加えたこと、〈3〉同女自身を道具として殺害したことなどの供述を始めたのは、検察官の前記威迫後の同年九月二五日以降であるから、前記一連の是正措置によって被告人の不安が払拭されていなかった旨主張する。確かに、〈1〉の点に関しては、検察官に対する昭和六〇年九月二九日付供述調書において、当時「その見返りを十分してやれる具体的な当てはありませんでしたからMさんを騙して金を取ろうとしたと言われても仕方がありません。」と供述しており、また、〈2〉、〈3〉の点に関しては、検察官に対する同年一〇月一日付供述調書において、「私は、とにかくMさんを死ぬように死ぬように追い込んで前途を悲観させてMさんに自殺してもらおうと思いました。」と供述しているが、〈1〉の点に関しては司法警察員に対する同年九月二二日付供述調書において、前記金員を被害者から交付を受けた日時、場所、理由などの事実関係について、詳細に供述しており、また〈2〉、〈3〉の点に関して、司法警察員に対する同月二三日付の供述調書において、「私がこのようにしておばあさんを脅したのは、おばあさんが自殺をしてくれたら都合が良いと思ったので、自殺をし向けるためにこのように言ったのです。」と述べ、その経緯や諸所に同行した理由などの事実関係について述べているものであって、検察官から前記のように威迫される以前から既に右〈1〉ないし〈3〉の点に関する基本的な事実関係を供述し、その後それがより具体的になったものと認められるのであるから、所論のように、これが検察官の威迫による不安のため迎合した供述であるとみることはできない。

2  また、所論は、被告人は、恐喝未遂、暴行事件で昭和六〇年八月七日に起訴され、同年九月一五日に殺人罪で逮捕されたものであるが、恐喝未遂、暴行事件の起訴日から同年八月二三日までの間は、M殺害の件について逮捕、勾留されることなく任意捜査という名の下に連日取調べを受け、その間取調警察官から机をたたかれたり、怒号されるという苛酷な環境下で取調べを受けて心身共に疲労困憊した状態にあり、右期間中のM殺害についての取調べは任意捜査の範囲を逸脱した違法なものであるところ、被告人作成の「供述メモ」は右違法な取調べ期間中に作成させられたものであるうえ、妻との接見と引き換えにその作成を要求された疑いが強いから、それを基本に作成された被告人の検察官に対する右各供述調書には任意性がない旨主張する。

そこでまず、右期間中の取調べについて検討するに、刑訴法一九七条は捜査官の任意捜査について何ら制限しておらず、起訴後、起訴された事実以外の余罪捜査のために被告人を取り調べることも許されることは明らかであって、恐喝未遂、暴行事件の起訴後に、別件である本件強盗殺人に関して逮捕、勾留の手続をとっていなくても、この別件について被告人を取調べることが許されることはいうまでもない。また、右恐喝未遂、暴行事件で勾留中であることをもって直ちにその供述が強制されたものであるということができないところ、更に、その取調べ状況についてみると、次のとおりである。すなわち、原審証人甲野二夫、同丁沢三夫、当審証人乙川四郎の各証言、当審で取調べられた司法警察員作成の「強盗殺人被告人丙山一郎の代用監獄における動静報告」と題する書面、その他関係証拠を総合すると、被告人は、昭和六〇年七月二二日に恐喝未遂、暴行の被疑事件で逮捕されて同月二四日に勾留され、同年八月七日右被疑事実と同一の公訴事実(原判示第二及び第三の事実)で起訴された後、同年九月一五日に殺人の被疑事実で逮捕され、同月一七日から勾留されていたこと、しかして、捜査官らは、被告人を恐喝未遂、暴行罪で逮捕、勾留後、同事件を起訴するまでの間においては、被害者Mに関する事項の取調べを行っておらず、右恐喝未遂、暴行事件を起訴した日である同年八月七日から同月二三日までの間、連日同女に関する事柄について任意捜査としての事情聴取を続けたこと、そして、その間の事情聴取の内容は、被告人が同女の死体のある場所を明らかにした同月一八日までは、これまでの捜査結果から、同女の所在を知悉しているとみられる被告人からその所在を聞き出すことに主眼がおかれたが、これに対する被告人の供述が最後に同女と別れた時期、場所等について転々と変遷するため、この事情聴取が連日に及ぶことになったものであること、同女の死体が発見された同月一八日以降は、同女の死因究明の鑑定等の捜査と平行して、被告人が同女の死体の存在場所を知っていた事情など被告人と同女死亡とかかわり合い等についての事情聴取を行い、被告人が、同女は農薬を自ら飲んで自殺したものである旨の弁解をしていたので、これ以上任意捜査で事情聴取を行うことは無理であると判断して、同月二三日にこれを打切り、同年九月一五日に被告人を殺人罪で逮捕するまでの間、被告人から本件強盗殺人の件についての事情聴取を一切行っていないこと、また、右任意捜査による事情聴取の期間中、警察官らは、被告人に対して供述拒否権を告げたうえで、事情聴取を行い、その際、警察官らが机をたたいたり怒号したりして威嚇的言動に及んだことがないこと等の事実が認められ、右認定に反する被告人の当審公判廷における供述はたやすく措信できない。右事実関係によれば、所論指摘の期間中における被告人の取調べに、任意による事情聴取の域をこえるような違法ないし不当な点は認められず、それが任意捜査の犯意を逸脱した違法な取調べであるとはいえない。

次に、被告人作成の「供述メモ」の作成経緯についてみると、当審証人乙川四郎の証言、当審で取調べた司法検察員作成の「殺人被疑事件容疑者取調べ結果情況報告」と題する書面及びその他関係証拠によれば、警察官らは、被害者の死体が発見された同月一八日以降は、被告人と同女の死亡のかかわり合いについての事情聴取を行い、同月二〇日にも真実を話すよう説得したところ、被告人が、「本当のことを言いますので、妻と離婚の手続きを取るよう言ってください。はっきりと離婚ができたという確認が取れた場合、気持ちの整理ができますので、そのあと正直に話します。」と答えたが、離婚と正直に話すのは別である旨なお被告人を説得した結果、同日、被告人が右「供述メモ」を作成するに至ったことが認められ、右認定に反する被告人の当審公判廷における供述は前掲証拠に照らして措信できない。右事実によれば、関係証拠によって認められる同月二一日の被告人と妻との接見を、交換条件としてこれが作成されたものでないことは明らかである。

以上のとおり、所論は、その前提を欠くので、採用できない。

3  その他関係証拠を検討しても、被告人の検察官に対する各供述調書の任意性に疑いを抱かせる事由は認められない。

二  次に、所論指摘の各供述調書の信用性について検討する。

所論は要するに、所論指摘の各供述調書の供述記載は、これを裏付ける証拠に乏しく、信用性に疑問がある、というものである。

しかしながら、被告人の検察官に解する各供述調書の供述記載は、被告人が被害者から七五〇万円の金員を受領した経緯とその使途、虚言を弄して被害者を連れ出した動機とその状況、被害者を諸所に連れ回った状況、被告人が被害者に農薬の飲用による自殺を決意させるに至った経緯、被害者が農薬を飲用した状況とその前後の状況等について、具体的、詳細に供述し、しかも、右供述中には、連れ回った先で同女を自動車のトランクに入れて待たせていたことや、春山の空家に潜ませていたころ、同女をホテルで入浴させたことなど特異な事実も含まれているうえ、右供述記載中、本件犯行前約半年間の被告人の生活状況、被告人が被害者の盲目的信頼を得た経緯、同女から合計七五〇万円の金員を受領したこと、被告人が昭和六〇年五月三〇日に同女を連れ出した経緯、状況、同日から犯行当日に至るまでの間に被告人が同女を諸所に連れ回った状況、春山の空家に一時同女を潜ませていたこと、同女が農薬の飲用により死亡したこと等に関連する事項が、関係証拠によって裏付けられていることは、原判決が「争点に関する判断」の項の「二 被告人の供述調書の任意性、信用性について」において、具体的、詳細に説示するとおりであり、これらの諸事情に鑑みると、右各供述調書の供述記載の信用性に疑問を抱く余地なく、その信用性は高いものと認められる。

なお、所論は、被告人の供述記載中、被告人が被害者の手を押し上げて農薬を飲ませたとの部分があり、右供述部分は、検察官から前記のとおり威迫され、恐怖心がつのり、検察官の心証を良くするため信憑性のあるように虚偽の事実を述べたものである、というのであるが、昭和六〇年九月二五日以降の被告人の一連の供述が、検察官に対して迎合的になされたものでないことは、前記のとおりであるうえ、原審証人甲野二夫、当審証人乙川四郎の各証言及び関係証拠によれば、同月二五日、被告人が検察官から取調べを受けた際、「(自分が農薬を)最初飲ませたところMさんはその後その農薬を全部のみました。」(検察官に対する同月二五日付供述調書)と述べ、当時、自殺を偽装するために農薬を死体に振りかけたとの心証を抱き、その旨の追及をしていた検察官から、再度問いただされたものの、その態度をかえず、詳細は乙川警部補に話させて欲しい旨申し入れていること、そして翌二六日、当時検察官と同様の心証を抱いていた乙川警部補から、その旨の追及をされたが、被告人は、「本当は、正座して手を合わせた後、おばさんは農薬を両手で持って飲むのをちゅうちょしていました。それで、私はおばさんの左側に行っておばさんに、『もうおばさんちゅうちょしておるのは一緒だから』と言って、農薬を持っていたおばさんの両手を左手でおばさんの口元に押しつけるようにしてもっていったのです。」(司法警察員に対する同月二六日付供述調書)と具体的に供述しているものであって、右事情に照らすと、右供述が検察官の心証を良くするため迎合的になされたものとはいえない。そして検察官に対する同年一〇月六日付供述調書(二一枚綴)においても同旨の供述を維持しているうえ、原判決が説示するとおり、被告人が被害者を連れ出して諸所を連れ回った経緯、七五〇万円の借金の返済を免れるためには同女に死んでもらわなければならないと考えていたということとも整合し、不自然な点はみられないことなどに鑑みると、右供述は十分信用できることが認められる。

三  以上のとおり、原判決には所論指摘のような訴訟手続の法令違反はなく、論旨は理由がない。

第二  弁護人の控訴趣意第二点(事実誤認及び法令適用の誤りの主張)及び被告人の控訴趣意中、事実誤認の主張に関する部分について

所論は、要するに、強盗殺人の事実につき、〈1〉被告人が被害者から投資名下に借り受けた六五〇万円を含む合計七五〇万円については返済のめどがあったものであり、〈2〉同女に自殺するよう強制するために、昭和六〇年五月三〇日から同年六月一五日まで同女を諸所に連れ回ったものでなく、〈3〉同女殺害の点については、原判示の事実関係を前提としても、被告人の同女に対する強制は心理的強制にとどまり、同女を物理的に行き場のないところまで追い込む程の積極的な欺罔行為をしていないうえ、同女自身は正常な判断能力を有し、同女の自殺は真意に基づくものであったのであるから、本件における被告人の一連の行為は殺人ではなく、単に自殺教唆にとどまるものであるのに、原判決が、被告人による強盗殺人罪の成立を認めたのは、事実を誤認し法令の適用を誤ったものである、というのである。

しかしながら、任意性、信用性に疑いを容れない被告人の検察官に対する各供述調書を含む原判決挙示の関係証拠を総合すると、原判決の認定にかかる強盗殺人の事実は優にこれを肯認することができるほか、原判決が右認定の理由として、「争点に関する判断」の項の「三 強盗殺人罪の成否について」において詳細に説示するところも優に首肯することができ、原審記録中のその余の証拠及び当審における事実取調べの結果によっても、右認定を動かすことはできない。

以下、所論指摘の主要な問題点について、当裁判所の判断を示すと、次のとおりである。

一  被害者から借受けた七五〇万円の返済めどについて

所論は、住宅建設資金を積立てる会員制による住宅建設互助会の事業を計画し、その準備をしていたが、右事業の実現のめども立ち、十分採算性があったから、右借受金の返済のめどがあった旨主張する。そして右主張を裏付けるものとして、当審において、同種の営業をしていた会社から取り寄せていたという小林住宅産業株式会社作成のパンフレット四通を提出しているが、弁護人橋口律男作成の電話聴取書、受話取扱者検察事務官石灘浩一名義の電話聴取書によれば、右提出にかかる右四通のパンフレットはいずれも本件後の昭和六一年以降に発行されたものであるうえ、うち二点の第一回発行も本件後の昭和六〇年一二月以降であることが認められるのであるから、これをもって、当時被告人のいう事業の設立を具体的に計画、準備していたことの裏付とみることはできない。かえって、原判決挙示の関係証拠によれば、被害者から借受けた合計七五〇万円のうち、昭和六〇年三月一二日の一〇〇万円は妻の出産費用や生活費に充てているほか、事業資金名下に借受けた合計六五〇万円は、金融機関やサラ金業者に対する借金の弁済金に合計約一三二万円、生活費に八〇万円、実父に与えた農機具の購入代金に一七万円、テレビ等の購入代金に一七万円を充て、また知人に二〇〇万円を預けた後、そのうち一五〇万円を被告人の三人の娘名義で五〇万円ずつ定期預金をしていること等が認められ、右のような費消状況は、当時、所論のような事業計画をしていたということとは整合しないものであるうえ、右資金について所論のような事業のために使用ないしは預金していたことを窺わせる証拠はみあたらず、野口勝己の検察官に対する供述調書によれば、同人は、被告人から一時期住宅建設互助会設立の話を聞いたことがあったが、その話も昭和六〇年三月末ころには立ち消えとなったので、五月ころから金回りのよくなった被告人に対し、事業開始のため事務所開設を勧めたこと、ところが、被告人は、「もうあまり大工の仕事はしない。これからは利権のほうに精を出す。」などと言って入会には応じなかったことが認められ、これらの諸事情に照らすと、当時、被告人が所論のような事業の具体的な計画やその準備をしていたものとは認めることができず、そのころ、被告人において、被害者から借受けた合計七五〇万円の返済のめどがあったものと認めることはできないから、所論は採用できない。

二  被告人が被害者を諸所に同行した理由について

所論は、被告人は、被害者に二、三か月他所のアパートで身を隠して住んでもらう予定で連れ出したものであって、同女を自殺に追い込んで殺害しようという意図で連れ出したものでない旨主張し、被告人は原審及び当審公判廷で、被害者に二、三か月他所のアパートに住んでもらおうと考えたのは、当時被告人が事業計画などで忙しかったのに、同女から頻繁に呼び出され、わずらわしくなったからである旨の供述をするが、前記一のとおり、当時、被告人に所論のような事業の具体的な計画やその準備をしていたものとは認められないこと、当時、被害者において頻繁に被告人を呼び出すような事情があったことを窺わせる証拠はないこと、忙しかったというのに同女を一七二日間にわたり諸所に同行し、しかもその間一度もアパートを借りようとしていないことなどに照らし、右各供述は措信できない。かえって、原判決挙示の関係証拠によれば、前記一のとおり、被告人は、被害者からの借金ないし投資資金名下に合計七五〇万円を借り受けていたが、当時右金員を返済していくだけの具体的な事業の計画、準備はなされておらず、その返済のめどがなかったこと、被告人が被害者に対し、同女がSに金を貸したことが、出資法という法律に違反しており、まもなく警察が事情を聞きに来る、罪になると三か月か四か月刑務所に入ることになるなどと欺罔威迫して、同女を昭和六〇年五月三〇日に連れ出していること、同日から同年六月一五日にかけて同女を諸所に同行したうえ、自殺を執拗に勧めていること、同月一五日、自殺を決意した同女に農薬を買い与えたうえ、農薬を飲もうと瓶を口元近くにもってきた同女の手に被告人が手を添えて押し上げていること等の事実が認められ、右事実に被告人の検察官に対する供述調書中、被害者を警察から逃げるという口実で連れ出し、その間に同女が死ぬように仕向けて自殺させることができるのでないかと思った旨の供述部分も総合すると、被告人が、同女を連れ出したのは、諸所を引き回し、その間に同女に自殺をするように仕向ける目的であったことが認められ、所論は採用できない。

三  殺人の成否について

所論は、同女の殺害の点については、原判決の事実関係を前提としても、被告人の同女に対する強制は心理的強制にとどまり、同女を物理的に行き場のないところまで追い込む程の積極的な欺罔行為をしていないうえ、同女自身は正常な判断能力を有し、同女の自殺は真意に基づくものであるから、本件における被告人の一連の行為は殺人には当たらず、単に自殺教唆にとどまるものである、というものである。

そこで検討するに、自殺とは自殺者の自由な意思決定に基づいて自己の死の結果を生ぜしめるものであり、自殺の教唆は自殺者をして自殺の決意を生ぜしめる一切の行為をいい、その方法は問わないと解されるものの、犯人によって自殺するに至らしめた場合、それが物理的強制によるものであるか心理的強制によるものであるかを問わず、それが自殺者の意思決定に重大な瑕疵を生ぜしめ、自殺者の自由な意思に基づくものと認められない場合には、もはや自殺教唆とはいえず、殺人に該当するものと解すべきものである。これを本件についてみると、原判決挙示の関係証拠を総合すると、被告人は、当時六六歳の独り暮らしをしていた被害者Mから、原判示のような経緯で盲信に等しい信頼を得て、短期間に合計七五〇万円もの多額の金員を欺罔的手段で借受けたが、その返済のめどが立たなかったことから、いずれその事情を同女が察知して警察沙汰になることを恐れ、発覚を免れるため同女をして自殺するよう仕向けることを企て、昭和六〇年五月二九日、同女がSに金員を貸してしたことを種にして、それが出資法という法律に違反しており、まもなく警察が調べに来るが、罪となると三か月か四か月刑務所に入ることになるなどと虚偽の事実を述ベて脅迫し、不安と恐怖におののく同女を警察の追及から逃がすためという口実で連れ出して、一七日間にわたり、原判示のとおり鹿児島から福岡や出雲などの諸所を連れ回ったり、自宅や空家に一人で潜ませ、その間体力も気力も弱った同女に、近所の人にみつかるとすぐ警察に捕まるとか、警察に逮捕されれば身内の者に迷惑がかかるなどと申し向けて、その知り合いや親戚との接触を断ち、もはやどこにも逃げ隠れする場がないという状況にあるとの錯誤に陥らせたうえ、身内に迷惑がかかるのを避けるためにも自殺する以外にとるべき道はない旨執拗に慫慂して同女を心理的に次第に追いつめ、犯行当日には、警察官がついに被告人方にまで事情聴取に来たなどと警察の追及が間近に迫っていることを告げてその恐怖心を煽る一方、唯一同女の頼るべき人として振る舞ってきた被告人にも警察の捜査が及んでおりもはやこれ以上庇護してやることはできない旨告げて突き放したうえ、同女が最後の隠れ家として一縷の望みを託していた大河原の小屋もないことを確認させたすえ、同女をしてもはやこれ以上逃れる方途はないと誤信させて自殺を決意させ、原判示のとおり、同女自らマラソン乳剤原液約一〇〇ccを嚥下させて死亡させたものであることが認められる。右の事実関係によれば、出資法違反の犯人として厳しい追求を受ける旨の被告人の作出した虚構の事実に基づく欺罔威迫の結果、被害者Mは、警察に追われているとの錯誤に陥り、更に、被告人によって諸所を連れ回られて長期間の逃避行をしたあげく、その間に被告人から執拗な自殺慫慂を受けるなどして、更に状況認識についての錯誤を重ねたすえ、もはやどこにも逃れる場所はなく、現状から逃れるためには自殺する以外途はないと誤信して、死を決したものであり、同女が自己の客観的状況について正しい認識を持つことができたならば、およそ自殺の決意をする事情にあったものは認められないのであるから、その自殺の決意は真意に添わない重大な瑕疵のある意思であるというべきであって、それが同女の自由な意思に基づくものとは到底いえない。したがって、被害者を右のように誤信させて自殺させた被告人の本件所為は、単なる自殺教唆行為に過ぎないものということは到底できないのであって、被害者の行為を利用した殺人行為に該当するものである。

なお、所論は、被害者が農薬の買い求めについて被告人より積極的であったとか、同女が死後の後始末を被告人に頼んでいることからみて、同女の自殺の決意は自由な意思に基づくものであるというのであるが、右農薬の買い求めは、前記のとおり、被告人によって錯誤に陥り自殺の決意をした後のことであり、同女が死後の後始末を依頼したということも同様であって、これらの事情があったとしても、同女の自殺の決意が真意に添わない重大な瑕疵のある意思であることは左右されるものではない。

四  その他所論指摘の点を検討しても原判決の認定を動かすことができない。

以上のとおり、原判決には所論の事実誤認ないしは法令適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数の算入について刑法二一条を、当審における訴訟費用を被告人に負担させないことについて刑訴法一八一条一項但書を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 金澤英一 裁判官 仲宗根一郎 裁判官 内藤正之)

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